昭和52年09月14日 朝の御理解
御理解 第71節
「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」
日々の神様に御祈念をさして頂きます中に、このことだけは必ず私の祈りの内容でございますけれども、どうぞ合楽教会の信奉者の皆さんが、日々真の信心の稽古をさせて頂いて、どうぞ貧争病のない世界、いうなら人間の難儀と言う、悩みと言うそういう悩み、難儀から解放された、お金に不自由する事のない争いのない、病気をする様な事のないおかげを頂かして下さい。
そして段々真の信心が分からせて頂くに従って、信心の真が現されますように、日勝り、月勝り、年勝りのおかげを頂きまして、どうぞ繁盛のおかげを頂きますように、信心の真を現す事によって、愈々それが代勝りの信心代勝りの徳にもなって、代勝りのおかげを頂きまして、真善美に輝かんばかりのおかげを頂き、またそれを目指して頂いての信心でありますように。これは私がここに御神縁を頂いて、合楽の信者と言われるほどしの人の上に、願いをかけておるのです。
また日々新たに押し寄せを頂いております氏子達には、「どうぞ願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ」と抑せられまするから、どうぞ合楽教会の、いうならば力ともなるような信者に、お取り立てお育てを頂きますように。これは合楽教会のまだ信者じゃない。また、金光様の信者というわけではない。ただ毎日お参りをしてくる、毎日新たな人が参って参ります。その人達のことです。
いわゆる求信の人達、信心のおかげを求めてくる人達、そういう人達の上に、「どうぞ願う氏子におかげを授け」と抑せられますから、もう文句なしに、ただ「お願いします」と言うだけでおかげを下さいと、その代わりにその後に「理解申して聞かせ」と抑せられますから、御理解を頂き教えを頂きまして、そういう何でもない、いうならばおかげを求めてくる信者でありましても、理解申して聞かせて頂いとるうちには、いわゆる合楽の信者として、金光様の御信者としてお取り立て下さい。
そしてそれが合楽の力ともなりますようにという願い。これはもう毎日これだけの事を皆さん、そしてまた新たに参ってくる求信者の人達の上に祈りがかけられて、それが皆そういうおかげを頂いとるのでございます。そういう祈りが成就する。だから私が願っておる事と、なら皆さんが信心の稽古をなさっておられるのが、やはり一致しなければいけません。なら皆さんから言うたらです、どうぞこうやって合楽の信者として御縁を頂きました。本当に合楽に御縁を頂いたことが有難いと思います。
どうぞそれに致しましては、愈々貧争病のない世界のおかげを頂けるほどしの信心を頂かせて下さい。そして、貧争病のないそういうおかげを頂かして、そういうおかげの中に、いよいよ信心の真を現さして下さい。そして日勝り、月勝り、年勝りのおかげを頂かせて下さい。私一代に日勝り、月勝り、年勝りの信心から、愈々信心の真を現さして貰うて、代勝りのおかげが頂きますように、私の代より子供の代、孫の代、そのために信心の稽古をさして貰う。
お徳を頂く力を受けて、それこそ言うならば、こういうおかげが受けられるという真善美に輝くようなおかげをもまた、願わして頂くという、そういう私の願いと皆さんの願いが一つにならにゃいけない訳。だから毎日参ってきとるから、信心の稽古をしとる事にはならんのです。そういう私の祈りに、皆さんが応えられるような祈りと願いをもって、稽古をなさるということが信心の稽古です。
夕べも夜中に、この修行生会議がありましたから、遅くまで会議をしとった模様です。その夜中に電話が、いわば子供が熱を出しましたとか、まあいろんな難儀な問題がここに書いて置いてあります。こういう夜、夜中それこそ私が退っておる中にでも、そういう切羽詰まったお願いがあります。だからこういう人達がです、常日頃信心の稽古をして、信心の真を現しておる人達であったら、もう実にお取次がしよいですね。信心しよるちゅうだけではいかんですよ。信心の真が現されておったらですよね。
時々参ってきてから、さあ目ん玉に指突き込むごと、「どうぞお願いします」と言うてもですよ、そりゃ私が今申しますように、それこそ初めて参って来た人に対してでも、「どうぞ願う氏子におかげを授け」と抑しゃるから、おかげのお取次をさして頂きますけれども、だからその後には理解を申して聞かせておるわけですから。それが合楽の芯真ともなるような信者にお取り立て下さい、という願いをしておるのです。
だから十年参っても二十年参ってもです、本当に合楽の芯とも力ともならせて下さいと言う様な、願いがないごたる信心なら、いくら日参りをしとったっちゃ、大した事はなか、と言う事になりますでしょ。そして信心の真を現させて下さいという、私は願いがかけられなきゃならなと思う。合楽理念合楽理念と言われるけれども、合楽理念とはそう言う様な事がです。もう本当に楽しゅう出来るように説いてあるのです。
信心の稽古をさして貰う、信心の稽古の焦点がどこに置いてあるか、なるほど人間の幸福の条件というものが足ろうてくる、貧争病のないほどしのおかげが受けられる。だから、受けただけではいけん、それをいかに信心の真を現すか、と言う事であります。そこで私の祈りとピッタリくる訳です。しかも日勝り、月勝り、年勝りのおかげをどうぞ、今までの信心じゃいかん、やっぱその日その日のお繰り合せを頂いて、いうならば不安のない、本当にその日暮しではあるけれども。
神様の御働きの間違いないのに恐れ入ってしまうという、恐れ入った信心生活がですね。百円のその日暮し、次には千円のその日暮しに回っていかねばいけんのです。昨日十三日会の時に、若先生がちょっと言ってましたですね、シャンソン化粧品とか八、九、十という御理解を、ちょっと言ってましたですね。あれは何回も頂かれたことで、知っておられるだろうと思うんですね。信心をさして頂きます、おかげを頂く信心が少し分かってくると、必ず八から九になっていくです。
いうならシャンソン化粧品です。シャンとすりゃ、損するという訳です。信心がシャンとすりゃ、必ず損になるような事が起こってくるというです。それは信心を求めるから、それによって信心の稽古を、さして下さろうとする働きですから、もう実に尊い働きなんです。その苦しいところを苦しい苦しいとあんまり言うと、そんならおかげばここで頂かちゃこてんのと、私が九から一つ引き下げて、八のおかげを頂くという人が、まあ大体沢山あります。八という字は、おかげということです。
だから折角八から九までおかげ頂いた、そして九になったんでしょ。だからこの九を苦とせずに、素晴らしい修行だと思うてこれを貫く所に十の信心、これはもうお徳力を頂く世界です。だから苦しいからと言うて、さあおかげを楽になるようにと言うのは、ですからおかげは頂けますけど、どこまでもおかげの世界です。シャンソン化粧品ですね、シャンとすりゃ損する。損するような所を自分の心を愈々清め、美しうし、いわゆる化粧していく訳です。美しうなっていくわけです。
そういう時でなからねば、なかなか美しうなれません。その美しうなったことが、認められると、神様が十のおかげを下さる。だから信心とは八、九、十というふうな行き方にならにゃならんのですけど、お互いが八九九、八九八で九八、九八のとこばっかりをしておるから、そんなら同じおかげを頂いて、なるほど貧争病はないおかげを頂いとるけれど、それが大した垢抜けしない、いうならいつまでも、いつまでも百円のその日暮しで終わっていく訳ですね。
だからその九を通り抜けたところに力がある、徳がある。そこにそんなら言うならば百円の力から千円の力が頂けるから、千円のその日暮しがまた出来る。また次には一万円のその日暮しがまた出来ると言う様に、限りなくこれは進展してかなければならないもんです。だから信心してどうしてこんなという時には、もう信心が止っておる訳です。そうしてそのどうしてんところば、おかげの方へ頂こうとする訳ですね。
楽になろうとする訳です。まあそう言う事で、行ったり来たりしておる人が、大体多いでしょうけれども、合楽の皆さんの場合だからいうならば、まあ皆が合楽に朝参りでもしておられる方ならば、貧争病のない世界におかげを、大体はよく考えてご覧なさい、頂いておるんです。家の中で争いがないことはない、ならお金に大変自由、その銀行に預けるほどしもない、なら風邪も引かんと言う事もないけれども、そういう時でもです、なら薬一服頂かずに、おかげを頂いておる事実があるじゃないの。
さあ明日はもう手形でどうのとか、明日どうでもこんなお金がいります、と言やあやっぱりお繰り合せを、その時その時頂いとるじゃないの。そりゃなるほど争いがない事はないけれども、「なら親先生はどげん仰るか」と言うて、大体治まって行きよるでしょうがね。だから貧争病のない世界におかげを頂いとるのですから、その貧争病のない言うならば世界から脱皮する事のために、信心の真を現していく、という信心にならなければいけないと言う事でございます。だから信心の真を現わさして下さい。
私はちょっとした、ちょっとしたと言うたら失礼ですけど、まあ手本のような信心の方の話を、昨日少しばかりしました。その方がここに御神縁頂いて、初めて十三日会におかげを頂いた。もう本当に話には聞いておったけれども、十三日会の内容の素晴らしいことに驚いて、そして丁度二年後に、満開教十年の記念祭のお祭りがあると聞いて、もうその日から、私は十年祭を目指しました。例えばですそれから一万円ずつ、毎月十年祭十年祭と言うて、丁度いうならば今月で、それが二十四万円になった。
だから十月のその月まで入れると、丁度二十五万円になる。どうでしょう。皆さんが月に一万円ずつ信心の真を、いわば現そうという気になったら、出来んことはない。さあもう後一ケ月になってから、やあやあ言って御用頂きたい百万お供えしたい、三百万お供えしたいという人は幾らでもあるですここには。それでもうあただ出来んで、骨が折れよる訳です。その方なんか二年間かかった。そりゃ金額は二十五万です。そりゃ金額でいうならば、何百万というお供えした人が幾らもあります。
十年祭のためにもうそれこそ。私は今度繁雄さんと二人でたまがりよる事は、全然ここの教会ではない関係の教会やら信者さん方が、目立って多いです。これは私は不思議でたまらんです。しかも纏ったですね、「合楽の十年祭に使うて下さい」と言うて、お供えがあっとります。それはまあ特別のおかげを頂いておられるからでもありますけれどもね。例えば合楽の信者信奉者として、なら五年、五年の記念祭をです。そんならいうならば十年祭が終わったら、次ぎの十五年祭を目指すようなね。
私はそこに僅かずつではあるけれども、信心の真を現すと言う事は、そう言う事じゃないでしょうか。私はそれを、昨日お取次させて頂いてから、その方の二年間の信心をじっと思うてみて、もう実に密かな密かな、今日も参っておられます。けどなかなか忙しい方ですから、もういつも中途半端で帰られますけど、毎月おかげの泉だけでも、やっぱり十冊位買って行かれるのです。自分の働きの現場に難儀な人があると、必ず毎日毎日お届けがあるです。
そしてあの新聞おかげの泉を、それこそ皆にそれが皆おかげを頂く訳です。そりゃ合楽の誰々さんと、誰も知らんごたる御信者さんです。本当にねようその二年前のいうなら昨日ですね。本当にそれをね感じ取らせて頂いたなと思いますが、その後の信心を娘さんと二人で熱心に参って来ます。御主人が信心がないですけれども、この頃からは主人がそれを認めてくれるようになり、お家に立派な奉斉式がございました。
お祭りされました神様。例えばその方の二年間の信心がです、いうなら信心の稽古に通うて来て、そしてその稽古を本当にしていきよんなさる証拠に、信心の真が現されておると言う事なんです。そうですね毎日日参りされますけれども、確か一月余りお参りが出来ん事がありました。それが丁度寒修行中だったでしょうか。自転車で参って見えますから、滑って怪我されたんです。だからそれは随分ひどかったらしいです。
「あぁまた信心が若いからそんな事で、ぐずぐずせやせんだろうか」と思いよったら、娘さんが今度は代わりに参って来るんです。「もう本当におかげを頂いて、この位でおかげを頂いて」と言うて、また信心が続いておるんです。ほんにこの人はどこが分かって行きござるじゃろうか。例えばなら十三日会なんか、大概お店を休んで見えられるんですけど、別になら発表でもされたちゅうごたる事はないです。密かなですからどこにおんなさるじゃろうかという感じですよ。
今日もどこかに居んなさるです。それでもねもう本当に「密かに信心せよ」とは、そういうことじゃないかと。しかもあの稽古ここに初めから最後まで、「稽古、稽古」と抑しゃっておられるが、そんなら稽古がどういうふうな形になって現れておるかと言う事を、一つ思うてみなければいけません。そしてこの方の場合は特別のおかげを頂くと言ったようなね、さあ医者が助からんと言う病人が助かったとか、金銭にお繰り合せ特別に頂かにゃならんとか、困った事情とかというものは、いっちょんないとです。
そこがまた素晴らしいです。だからそういう信心には、もう既に貧争病のない、いうならおかげがもう約束されとるのじゃないでしょうか。まだ二年間この方が、「どうでも今日おかげ頂かんならん」と言うお届け、聞いた事がない。もう言うならば自分の周辺の人達の事、それから自分が勤めておるお店の事、しっかり願われます。これだけでも信心の稽古、いや信心の稽古じゃない、信心の真が現されておる訳ですね。
今日は私が皆さんに私の祈りの内容を聞いて頂いたがです、私の祈りの内容に、皆さんもそういう内容になって祈りであり、願いでなからねばならないと言う事です。そしてうまずたゆまずじゃなからにゃいかんと言う事です。そして信心の真が現されていかなければいけないと言う事です。「思うちゃおるばってん」ではいかんのです。今日はいわゆる信心の稽古と言う事がです、どこまでも真の信心を目指さして頂いて、お参りをして稽古させて頂いて。私が毎朝お願い致します。
合楽の信者信奉者がです日勝り、月勝りのおかげを頂く様に。その為には、信心の内容が、段々出来て参りましたら、どうぞ貧争病のない世界におかげを頂きまして、愈々信心の真を現わさして下さい。信心の真を現すから力が受けられる。八、九、十という時にですね言うならばこういう生き方で、今例を申して言うならばね九が苦でないですね。もうスムーズに十に進んで行けるという感じです。本当に信心の真を現していくと言う事に、例えばどうぞ貧争病のない人間の幸せを、言うならおかげ頂かせて下さい。
お願いなさっておられましょうけれども、その次にどうぞ今日も信心の真を現さして下さいと言う所にです、合楽理念が生き生きとしてくるのです。そこで信心の真を現すから、愈々真の信心に進んで行きますから、いや次のいうなら代勝りのおかげが頂けれる。後の者にも残しておけれるものが、信心の真を現して行く事によって、子にも孫にも伝えていけるものが、もう既に出来ていきよるわけです。おかげを頂くから参りよる、おかげを頂くからお供えしよるでは、大した事はないでしょう。
夜、夜中どう言う事が、あるやら分からん。例えばそういう信心の稽古をし、信心の真を現して行っておる人達がです、さどうぞと火急な時なんか、もういくら火急であってもです、神様がもうそれこそスムーズにお受け下さると思うです。日頃信心の真を現しておりますから、それはいわゆる信心の真を現してなくても、日頃は参って来とらんでも、ここにありますように、夜夜中に「さあどうぞ」と言うてお願いさせてもらやあ、おかげも頂けますけれども。
そういうおかげでは合楽に御縁を頂いておる値打ちはないと言う事。日々この様におかげを頂かして貰うておるのですから、それが本当の稽古のいうならば手立てになっていかねばならんのです。信心はいうなら華々しいとか、目立つような信心は出来なくてもです。今二年間合楽で信心の稽古をされた方が、いうならば二年前の十三日会に、初めてお引き寄せ頂いて。十年祭を目指そう。後二年間で十年祭と聞いた時に、もうその日から決心された。その事が二年間続けられた。
そしたら大した事じゃあないでしょうけれども、その真心思いと言うものが続けられた。おかげを頂いていうならば念願が成就した。それはそのまま神様の念願が成就する事にも繋がるだろうと思います。「氏子信心しておかげを受けてくれよ」と、その方のところで特別さあ夜、夜中に火急なお願いをせにゃあならん様な事が起こらないとか、いうたら平穏無事でおかげを頂いとられる。
昨日の御理解じゃあないですけどね、痛いのが治ったのが有り難いのではない、いつもまめなのが有り難いのだ、と言う様な事が、もう身を持って分かっていきよんなさるという感じ。そしてその方がお届けが、「もうとにかくおかげを頂いて、おかげを頂いて」と言うばっかりです。「もうどげん言ってお礼を申し上げてよいか分からん」と言う、そのお届けばかりです。
それでそういうおかげ、いうならば貧争病のないおかげを頂かれるという信心なんです。合楽ではそういう信心を求め、願っておる訳です。お互いの信心を一つもう一遍、反省させて頂いて、本当に信心はしよるけれども信心の真を現させて下さい、と言う所に少し欠けた所がありあせんか、いや欠けておったと言う事に気付かせて貰う。それが信心の稽古の、いうならば本当の信心の稽古の手立てになると言う事でございます。
どうぞ。